福井の伝統から生まれる
きめ細やかな織物
越前織の歴史
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戦後
アメリカから大量の織マークの注文
戦後、丸岡の細巾業界にアメリカから大量の注文が舞い込んできた。
当時、織マークの注文は百ダース単位が普通で五百ダース、千ダースは大口だった。ところがアメリカからの注文は何十万ダースという天文学的数字で、とても丸岡の全業者が受けても応じ切れない注文である。 -
昭和
30年波乱に満ちた年代
昭和30年代は、織マーク業界にとって好況、不況を激しく繰り返した波乱に満ちた年代であった。
本県の細巾織物の工場数は、昭和27年前後は200工場足らずであったのが、昭和34年には555工場に、昭和35年には980工場に飛躍的に増加している。昭和36年には過当競争が表面化し、生産秩序が乱れ、混乱状態になって休業する業者が続出、この年の人絹相場の暴落、低迷も反映して業界全体が不景気のどん底に突入した。
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昭和
39年東京オリンピック
昭和39年10月、東京オリンピックが開催された。オリンピックといえばあの五輪マークである。
織マーク業界では正式にマークを取り扱う商社により「オリンピックワッペン業務連盟」が結成され、その製造指定、不正使用防止などについて協力を当組合および北陸織マーク連合会に申し入れてきた。 -
昭和
40年「原着糸」の共同購入
昭和40年代の末頃から酸性合成洗剤やさらには漂白剤まで一般家庭に出回るようになった。
結果、組合では共同事業として昭和52年に新しい標準色としてクラレ原着糸を相当量仕入れる事となった。 -
昭和
57年画期的な高速織機
昭和57年頃から、町内においても「レピア式織機」を導入する織マーク業者が出始めた。
レピア式織機は広幅用の織機を利用したもので、タテ糸ヨコ糸共全ポリエステルで製品を織りながら同時にヒートカットしていく機械である。 -
昭和
59年紋紙工程のコンピュータ化研究
組合では、福井県紋工業協同組合と提携し、福井県繊維工業試験場、大日本スクリーン製造株式会社の全面的な協力を得て、「織マーク紋紙生産工程コンピュータ化研究開発事業」を昭和59年4月~同60年3月に実施し実用化の可能性について研究開発を行なった。
その結果、コンピュータ画像修正処理にある程度の熟練を要するが、組織の挿入、紋彫などは短期間の修練で操作できる。また、織巾の違いやデザインの難易度により多少の修正時間差が出るが紋彫の工程時間は画期的に短縮されることになった。
今後、コンピュータの活用により紋工作業の合理化と新製品の開発が可能となった。